中小企業の法律相談
福岡の弁護士、近江法律事務所が提供している法律コラムです。
民事信託活用のイロハのイ
Q.民事信託の活用例が最近増えている、と聞いています。
A.現在、民事信託が最も多く使われているのは、認知症対策のケースといわれています。
例えばこういうケースです。元自営業者のX(82歳)は、妻を亡くし一人暮らし。長男Aは独立している。Xは自宅のほか賃貸アパートを持ち、引退後年金と賃料収入で生活。しかし、Xは最近物忘れがひどくなっている。昔は何でもなかったアパートの管理も煩わしくなり、特に賃借人退去に伴う原状回復を巡る紛争、建物の修繕、等々について負担感が増してきた。この際長男Aにアパートを譲りたいと思うが、それでは賃料収入が断たれてしまう。年金だけでは生活が不安だ。長男Aから生活費を援助してもらえばいいのだが、元々は自分のアパートなのに、賃料がAにいくというのは釈然としない。今はAとの関係は良好だが、Aは事業をしていて将来Aに何があるかわからない。そもそも生前に贈与すると贈与税は高く相続を待った方が得ではないか。一方、AはAで、高齢者がターゲットにされた投資詐欺などの消費者被害のニュースが出るたびに父が悪徳業者にひっかかりはしないか、と心配している。
ありそうなケースですが、実はこうした場合に民事信託の活用が有効です。
Q.具体的にはどういうものですか。
A.Xは長男Aと信託契約という契約を締結し、アパートをAに譲渡し名義もAに移転させる、以後はAが管理をしていく、しかし、賃料はXが取得する、というものです。
Q.なんだか、ややこしいですね。
A.理解を深めるために、信託の歴史を少しお話しましょう。信託はイギリスで生まれたものとする説が有力です。時は十字軍の時代に遡ります。十字軍として長期にわたり遠征する兵士が、出征にあたり妻子のために不動産の管理を例えば信頼する叔父に頼みたいという場面を想像してください。兵士は戦地に赴いている間、譲渡した不動産を叔父に適正に活用してもらい、賃料収入を妻子の生活費に渡すことを委ねます。信頼する叔父ですから、きちんと賃料を回収し妻子に渡していってくれるでしょう。そして、兵士が無事生還したときは不動産を兵士に戻す、ということになります。先のアパートの例では、十字軍に赴く兵士がX、兵士の叔父がAということになります。重要な点は、不動産の所有権は兵士から叔父に移転する、ということです。したがって、叔父は不動産所有者として自己の名義で、そして委ねられた目的の中で自由に、不動産を管理・活用できる、場合によっては処分もできる、ということになります。
Q.歴史や背景を知ると、俄然、信託に対し興味が湧いてきますね。
A.そうですね。こうした歴史的沿革を踏まえ、信託の重要な性質として、所有権が移転するということ、委託者(兵士)と受託者(叔父)との間には信認関係が根底にあること、があり、また委ねるときの約束(信託契約の内容)が大切になる(十字軍の例では「妻子の生活のため」というのが目的であり、妻子は「受益者」です)、と理解すればいいと思います。
Q.信託は、委託者、受託者、受益者の3者が登場するという知識はありましたが、よくわかりました。さて、先のアパートの例では、Xの立場は「委託者」であり、Aは「受託者」というのはわかりますが、X自身が、賃料収入の利益を享受するという点で「受益者」でもある、という立場に立つのですね。
A.はい。実際はこのように委託者と受益者が同一の場合(自益信託)がほとんどです。
Q.面白いですね。確かに、所有権がAに移れば、Xが悪質業者から被害に遭うことを防げるし、Aも所有権者としてアパートを管理・活用していくことができますね。Xは賃料もきちんといただける。メリットが多いですね。ただ、Aは事業をしているので、アパートをA名義にすると、Aの事業がうまくいかなくなったとき、Aの事業の債権者からそのアパートを差押さえられてしまう危険があるのではないでしょうか。
A.その心配はいりません。Aの事業の債権者は、信託財産を差し押さえることはできません。「A固有の財産」と「信託財産」とはきっちりと区別される、という仕組みが取られているのです。これは「倒産隔離」と言われ、信託の重要な機能の一つです。この点で単純にXがAに贈与するという方法よりも優れていますね。
Q.それは安心ですね。でもまだ気になることがあります。アパートの所有権がXからAに譲渡されるとき、代金のやり取りはしないでしょうから、贈与になると思います。Aに贈与税がかかってきませんか。
A.Aに贈与税はかかりません。なぜなら、信託による所有権移転は、受託者が信託目的に従って信託財産の所有名義人になり信託財産を管理するためのものであって、受託者本人は実質的に利益を得ていないからです。
Q.この点も安心なのですね。ほかにも幾つか税金がありますが、どうですか。
A.はい。Aは不動産取得税も負担しません。XからAへの所有権移転は形式的な移転にすぎないからです。これに対し、固定資産税・都市計画税は、Aは負担しなくてはなりません。これらは1月1日時点での登記名義人に課せられるもので、実質よりも形式つまり名義が重視されるからです(この場合、AはXに対して負担分を費用として請求することが考えられます)。また、所有権移転登記手続きの際の登録免許税についても、負担しなくてはなりません。ただ、売買のときよりも安くなっていますし、土地についてはさらに軽減されています。他方、Xについては譲渡所得税はかかりません。「対価」を得ていませんし、譲渡の相手方はAという個人ですので法人の場合に適用されるみなし譲渡所得は問題とならないからです。信託譲渡は税務上資産の譲渡ではないという考え方もできようかと思われます。賃料収入については当然、課税されます。なお、以上の説明は本件ケースに限ってのもので、ケースによって異なること、信託が終了した場合等には別途検討する必要があることにご留意ください。
Q.最後に、後見制度との違いは?
A.後見制度は、あくまで判断能力が失われた後に開始する制度ですので、XやAのニーズに沿うことは出来ません。また任意後見契約では所有権は移転しないこと、及びその本質が委任であることからの限界があります。
本稿で信託に興味を持っていただければ幸いです。ただ、専門家が関与した信託のスキームでも後に裁判で無効とされた事例もあります。信頼できる専門家(弁護士、税理士、司法書士、等)に相談することをお勧めします。
R02.06掲載